結果を出すべき場

酔うに任せた記事である。

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世の中には「結果を出すべき場」というものがある。

結果がその後の評価や、人生に直結するような場である。

部活動あったら、日々の練習かもしれないし、週一の練習試合かもしれない。その部活動の自分のパフォーマンスが、公式試合でスタメンに選らばれるか否かが変わる。
逆に言えば、勉学はスタメンに選ばれるか否かについての影響力はあまりない。定期テストの結果は、部活動でスタメンに選ばれる上で「結果を出すべき場」ではないと言える。

逆に勉学面の評価、通知表は、定期テストの結果がそのまま反映されることが多い
(日々の宿題や課題はあるかもしれないが)。
部活動を頑張ったから、国語が「5」になることはあり得ない。国語において、結果を出すべき場とは、短絡的ではあるが国語の定期テストの試験だと言える。

ピアノであったら、ピアノのコンクールの演奏、数分の演奏一本が「結果を出すべき場」なのかもしれないし、スキーだったら大会で滑ってくるたった一本の滑りがそれなのかもしれない。

ペン回しと言えば、CVに提出したほんの数十秒の動画が「結果を出すべき場」かもしれない。

同じように、社会人も「評価を下される場、基準」が「結果を出すべき場」なはずなのだが、どうやら自分の先輩方にとってはそうではないようである。

今日の飲み会では、先輩方が感じる会社の評価基準が間違ってることを、自分の正義にのみ照らし合わせながら語るのを、ひたすら聞く会であった。


仕事をする上での自身の正義はあるであろうが、それを叫んだところで影響力を伴わない正義は虚しくこだまするだけである。

悲しいかな、国政の多数決とは違い、会社は上に立つ一人の人間の裁量で価値判断や政策決定がなされるのだ。

上に立つ人間も同じように自身の正義を掲げているはずなのだが、今日、ありがたくお話を聞かせていただいた人達からは、「その選択が正しいと、上の人たちがどういう理由から考えているのか」、また「上の人たちがその選択をせざるを得ない状況とは一体何なのか」を分かろうとする姿勢がまるで見られなかった。
もしかしたら分かっているのかもしれないが、彼らは手っ取り早く叩ける人間を見つけて、「優れている」自分たちに酔っているだけなのかもしれない。

その状況を変えるうえで、仮に上の人たちが下の人達の意見を聞いてくれる人たちならば、まだ声をあげる意味はあるのかもしれない。
しかし、聞いてくれない人達であったら………?下の人たちはそのまま見えないところで声を挙げ続けて何か状況が変わるのか?

資本主義のような利益を求める社会では「結果を出すべき場」に関して評論する人間ではなく、「結果を出すべき場」で戦える人間が基本的には求められる。評論が結果として利益になるのであればいいが、飲み会でくだをはく会がそうであったとはとても思えないが……………。

………………あぁ、酔いどれの頭にはこれが限界だ。
そのうちまた続きを書こう。


…したっぱがこんな記事を書かなきゃいけない状況ってなんだ。