価値観とか決断とか生きるとかについて

NHKクローズアップ現代にて、道徳の授業をやっていた。

小学生に価値観をどう教えるか?と言うテーマ。

 

教師…一つの価値観に落とし込むことを目標に授業の展開を試みる。

1人の生徒が、異なる価値観の意見(=多数の小学生と違う意見)を発する。笑うクラスメート。

それきりその子は発言できず、涙を流してしまう。

 

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ペン回しと絡めて考えてみる。

 

ペンスピナー…多様な価値観に触れることが多い。

FSを撮る人は多くの場合「いいFSを撮る」という目標に向かって活動する。

だがその「いいFS」とはなんなのか?

人にウケるFSがいいのか?じゃあウケるとはなんなのか?

ウケなくても自分が組みたいFSを組むのがいいのか?

有名なCVで見ることのできるFSはいいFSなのか?

大会で勝てるFSがいいFSなのか?

 

答えが決まっているペーパーテストでは測れない。

壮大かもしれないが、そもそも「生きる」こと自体が、答えのない問を考えていく行為でもある。

 

「『いい』とは何か?」を考える行為。

→考える対象、考える目的、置かれた状況など、多様な要因が複雑に絡み合っていることを前提として考えなければならない。

 →一概にA⇒Bと言えることの方が少ない。

 

そしてその要因以外にも、「『いい』とは何か?」を考える行為には、それまでで自分が培ってきた価値観も影響する。

その自分の価値観は、それまでの自分の周囲の環境が決めることがほとんど。

 

自分の家族はどんなことを考えていたのか、どんなことをされてその時に何を感じたのか。友達は、先輩は、先生は、上司は、最近見たテレビは、雑誌は、本は?

そういった色んな要因が混ざり合った上で、さらにもうひとつ、人類という動物の種としての本能が影響して、自分自身の価値観が形成されていく。

 

考えたことについては、基本的には自分なりの視点があっていい。

しかし、上の小学生のように、人と違う価値観にぶつかり、受け入れられず、葛藤することもある。

そのときにどうするのか?

受け入れられないことを嘆くのか、相手のことをわかろうとするのか、排除するのか、「人それぞれ」で済ませるのか、「人それぞれ」で済まないときにどうするのか。

 

若干ずれるが、一つの題材として例えば…

クローズアップ現代でも放送していた道徳の教科書

 主人公は野球チームに所属している小学生。場面…塁にはランナーが出ている状態で、主人公に打席が回ってきた。

監督は送りバントを指示。

しかしピッチャーが投げたボールは絶好のコースに。

主人公は監督の指示を守らず、二塁打を打ってチームは勝った

試合終了後のミーティングにて、監督は主人公に、指示を従わなかったことについて注意。

 

これはどうとらえられるべきなのか?

監督が勝てばいいと思ってるのであれば、指示に従わなかったとしても、主人公は注意されなかったのか?

 

監督が監督である以上、指示には従ってもらわないといけない、と言うのもわかる。選手が監督の意見を全く聞かなくなればチームは崩壊してしまう。

だが、監督が送りバントの指示を出し、それに従った選手は失敗、それがきっかけとなってチームに点が入らず負ける、なんてことがあるかもしれない。

その時にどうするのか?失敗した選手のせいにするのか、自分の判断ミスを猛省するのか。

 

未来は約束できない。

→しかし何かしらの決断をしなければならない。

 ←→決断を人に委ねてしまう人だっている。どうするのか?委ねてしまう人が悪いのか?委ねられた人がいい人ならそれでいいのか?

 

―――

「いい」は原理・原則で片付けられるものではない。

原理・原則を決めれば、それに従えば何もかもがスムーズにいくのかもしれないが、一方でその価値観にそぐわないことが出てくることがある。そのときにどうするのか?排除するのか?原理・原則を変えるのか?

 

ーーー

ペン回しの日本大会、”Japan Cup”が開かれるそうな。

その宣伝の中に、「日本人らしい審査方法(審査基準?)で審査します」といった趣旨の文言がある。

 

「日本人らしい審査方法」とはなんなのか。

これまでの大会を振り返ると、審査の基準がぼんやりとしていたこともあれば、点数でカチッときめたものもあったが、今大会ではどう落とし込むのか。

審査員は誰なのか、その権威付けはどうするのか、合意プロセスはどうするのか、

それとも完全な上意下達で決めるのか。

 

色々上げればきりがないが、正解が一つでない以上、考えうる要素は出しつくしてみるべきある。だがきりがない以上、考えられること全部をまとめるなんて出来るわけがない。

 

できること・できないこと、やれること・やれないこと、やらなきゃいけないこと・やらなくてもいいこと…。

 

はそれぞれ何なのか。

 

―――

世の中に正解なんてない。むしろ正解があることの方が少ない。

良かれと思ったことがそのまま上手くいくこともあれば裏目に出ることもあるだろうし、適当にやったことが因果応報で跳ね返ってくることもあれば、案外思っていたよりもいい結果になるかもしれない。

 

良いことがずっと続くかもしれないし、悪いことしか続かないかもしれない。

 

生を受けた以上、それは死ぬまで続いていく。

だったら、死ぬのも一つなのかもしれない。 

人生に意味なんてないかもしれない。

 

だがそれでも、現実と格闘するのだ。

色んなジレンマを抱えつつも、もがき続けるのだ。

そのなかで、何かいいことが1個でもあれば、生きていてよかったって言うこともできるんじゃないだろうか。

 

その喜びはまた明日明後日に繋がっていくかもしれない。 

再開

何事もアウトプットすることは大事だと言うので、再開してみよう。
誰も見てないだろうし、好きなことを好きなだけ書いてみよう。

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中3からブログを始めて、更新したりしなかったりしながら今日に至るわけですが、こうも日が開くと何を書いたらいいのやら、というありきたりな悩みも抱えてみたり。

考えているのは、自分は好きなんだけど、今まで表立って書いたことのないテーマ。最近読んでる本とか、見た映画とか、ニュースとか。
誰も見ていないブログだからこそ、好きなように、自分が挑戦したいテーマで書いていけるかなと。
日々勉強、日々成長、新しいものに触れて新しい感覚や考えを生んでいく、なんて言うと陳腐だと自分でも思うけど、シンプルでわかりやすい目標だ。

そんな感じでやっていきたいですね。
頑張ろう。

進撃の巨人 99話読んで展開予想メモ

僕も漫画は読むんです。
色んな考察サイト読んで思いつきでメモ。

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最終回が近い?

■今後の展開
パラディエルディアに罪がないこと、だけどまだ脅威は残ってること暴露済

エレンを悪に仕立てる

エレン巨人化、マーレ無能トップら殺害。→「お祭り」
(顔知らないし無理あるか…。)

タイバー家、戦槌の巨人でエレンを殺害、進撃・始祖巨人を継承、タイバー家がまとめる。

パラディを恐れる理由消滅。
水晶化のアニ奉還。
パラディ島内の巨人も殲滅済のため、マーレが攻めてこない限り、島内には何も脅威がない。

パラディ・世界共に平和が訪れる。

■伏線との絡み
「呪われた歴史」に終止符を打てる。
→ベルトルト、ジークらも成し遂げたかったこと。

「ミカサやアルミンを救いたいなら~」
→エレンは犠牲となるも、島内には平和をもたらせる、という意味で解決。

■未回収伏線
ミカサが東洋人であること、腕の印。
アッカーマンについて。
フリーダが礼拝堂地下でグリシャに言い放ったセリフ。
「母さんの仇」をうてたと言えるか微妙。
超大型を保持しているアルミンの立ち位置。


エレンが「仕方なく」マーレで暴れても、幼少ライナーらと同じことやってるだけで、また恨みを買うだけ、根本的な解決にならない。

「海の向こうのあいつら全部ぶち殺せば自由になれるのか?」発言の、途方もなさそうなエレンの表情。殺そうとしてもどうにもならなさそう。
→99話の達観した顔。死を覚悟?

そもそも寿命短い。
→戦ったとして生きている間に自由になれるのか。

クルーガーの「人を愛せ」
→人を愛することで、時として自己犠牲も厭わなくなる。
グリシャ→カルラとエレン→エレンに食わせる
エレン→ミカサ→タイバー家に食わせる

タイバー家もエルディア人。
同じ人種が迫害されるのは耐えられない?

メタ視点
そもそも全20巻で終わる予定だった。
しかもミストのような後味悪いエンド想定。
単純な善悪を書くか?

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うーん、都合良すぎるか…………。

都度展開予想してるけど、当たったことはない。この予想を軽々超える展開があるんでしょう。

最終回まで楽しみです。

アドバイスや人間関係の覚書

どんなアドバイスを取り入れるかは、自分の考え方、方向性次第だが、何かにつけて理由を持ち出して「そうは言っても俺は違うし」を続けるとただの頭の硬い人になり、人の意見を全く取り入れず何も成長しない人になりかねない。

質の低い罵倒とも言える批判を、間に受けず突っぱねることは自分の軸をぐらつかせない上で大切だが、その環境にい過ぎて何も受け付けなくなると、グサッと傷付くが本当に大切な批判すら突っぱねることになりかねない。

「成長」とは、それまでの自分の世界でない世界に足を突っ込むことであり、今までの自分と違うことをすることであり、今までの自分と違う自分になることである。

成長している最中に、自分自身に変化を感じることもあれば感じないこともあるが、感じていない時には無意識に変化しているということである。

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「人それぞれ」とは議論の前提であって、結論ではない。
そう結論づける人が、本当にいいと思ってないことをアドバイスしているのか、自分に自信が無いためなのか、発言に責任が持てないためなのか、それは分からない。

正しかろうが間違ってようが、とりあえず意見を表明する際は「自分はこう思う」とはっきり述べられるようになるべきである。

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教育する、洗脳する、影響を与える

どれも「人を変化させる」行為で、見方によって、表現を変えたものである。

表現は良くないかもしれないが、これらの変化は「自分好みに染め上げる」変化であるとも言える。

時としてそれは悪い意味で「宗教的」と呼ぶこともあろう。

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いいと感じたらいいだろうし、悪いと感じたら大抵悪いのだろう。
直感的にそのように感じる能力を「感性」という。

感性と観念は時として相反することがある。
感性に即しない観念とは、極めて空虚で、単なる屁理屈である。

屁理屈とは、実際に即しないが筋としては通ってることも多く、あたかも正論であるかのように思えるので極めて厄介である。

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ペン回し界に権威はない。

名選手が必ずしも名監督でないように、ウマコテは必ずしもウマアドバイザーではない。

日本ペン回し連盟は有志が勝手に作ったものであり、上からの権威付けはされていない。栄枯盛衰、むしろ枯れて衰えることの多いペン回し組織において、ブランド力があるわけではない。彼らのこれからの実績次第である。

同様にFSのアドバイスをする人も好き勝手やってるだけで、その人たちに権威も正当性もない。数多くの有名なCVに出た、世界大会に出たからと言え、その主張が正しいかなんてわからない。

となると、主張の説得力が権威を生む形になる。
説得力とは、論理の緻密さであったり飛躍の有無であったり、そもそもの根拠の納得感だったりする。

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ペン回しを、言語を用いて語ることに意味があるのか、考えることがある。
結局回して練習しないとペン回しは上手くならない。動画を見てひたすら真似し続けるだけでいい気もする。現に語っているだけの自分は下手くそだ。

ペンスピナーが求めているのは、「感動させてくれる回しをするスピナー」であって、「深イイことを語ってくれるスピナー」ではない。

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ある人の回しを見て感じることと、その人がその回しで意識していたこととは、往々にしてズレるものである。
「そんな感想を持ってくれるなんて考えたことない。自分はこんなことしか考えてなかった。」ということは結構ある。

「じゃあその人が考えていた『こんなこと』を俺も真似しよう」と試してみて上手くいくとは限らない。
その人が「考えてもいない無意識にやっていること」が、そもそも自分も同じように出来ているかなんて分からない。

そのそれぞれのプレーヤーが「考えてもいない無意識レベルの技術・共通点」を、皆が共有できる形にするのが、言語化、語ることの目的だろうと思う。

言語はウマコテとそうでない人たちを繋ぐ架け橋となりうる。

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技術論はウマコテとそうでない人々との架け橋にはなる。
ただしあくまで橋にしか過ぎず、その橋を渡ってウマコテゾーンに踏み入れるには、当の本人がその方向に向かって一歩一歩を歩いていくのかによる。

その方向に歩ませるのは、単なるFS論や技術論だけではなく、コーチング技術や橋を作る人と渡る人との信頼関係によったりする。また別次元の話である。

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信頼のおける人が周りにいるかというのは結構大事である。
その後の人生すら左右する。
信頼のおける人とは、「この人は自分のために何かしてくれたり、言ってくれたりする人」である。

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以前、ペン回し界では「内輪化」が問題視されたことがあった。それぞれのスピナーが特定のコミュニティでしか交流を深めないことが、ペン回し界の発展を阻害すると言われたことがあった。

今では初心者や若手もtwitterでウマコテ達と繋がれるようになり、その傾向は以前よりなくなったように思う。

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弊害がない訳では無い。

ウマコテとつながることで、手の届かなかった人たちとの交流が増えると「いつかああなりたい」という気持ちも失われることがある。

自分の手に届かないものを求める欲求、「あの人達に会いたい」「あの人達のように上手くなりたい」という憧れのようなものは、繋がりが出来ることでそれだけで満足してしまうこともある。

Twitterで会話ができるだけで、ウマコテに認められたと感じ、「憧れのあの人と会話できて満足してるし、ペン回しが上手くなくても楽しいや!」ということにもなりうる。

自分は「ペン回しをする」のではなく、「ペン回しを頑張って上手くなっていく」過程を共有するのが楽しいので、上手くなろうとする意識が失われるのはいかがなのかと思ってしまう。

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ウマコテと繋がることで、繋がっていない人達を排撃する人もいるようである。「自分達はもっと上手い人とのコネがある、だからコネがない君たちはよそ者だ」と言わんばかりである。
ウマコテとよく話す人のなかには、そのウマコテの威を借りて居丈高に振る舞っている人もいる。ウマコテの教えを受けた正当な人が自分、とでも言うかのように。

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下手にウマコテと繋がるよりも、年代や地域の近い人たちで信頼のおける人間関係を作るのは、ペン回しが好きでずっと楽しみたいなら必要である。
そういう人間関係を作った上で、あれこれとお互いのFSについてアドバイスし合えると、その後続けていけるかが変わる。

そのためにも、ネットを介しての繋がりだけでなく、オフ会で対面して作る人間関係の方がよっぽど大事である。

若手・初心者はオフ会を重ねるべし。ペン回しをする人に悪い人はそんなにいない。はずである。

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ペン回しを始めて半年以内の人は始めたてホヤホヤの人たちとも仲良く出来ると思うし、技が出来る喜びやCVを見た時の感動も一緒に味わえると思う。
なんだかんだで歴が近い人とは、自分と同じものを見てきた可能性も高いので、あの時あんなことがあったよなと振り返れることも多い。

歴が離れるとやっぱり見てきたもの、感動してきたものが違うので100%分かり合うことは出来ない。

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twitterだけで交流しているという人がどれくらいいるか分からない。
浅くて薄い交友よりも、深くて濃い交友こそが自分にとって大切な友人となりうるのだ。

寄稿しました。「大手証券会社を1年で辞めた私が転職して幸せになった理由」

自分が高校1年のときからの友人であるタコペッティ氏のブログに、自分の社会人体験談を寄稿しました。

 

takope.net

 

考えてみれば、新卒入社してからの転職するまでの1年2ヶ月は傍から見たらやべえ日々を過ごしていたように思う。よく生きてたな。

 

記事の内容は9割以上本当である。誇張無し。

社会人としての責任もやる気もないのに加えて、あの環境であったから早々に精神的にギブアップした。ホントになんで入ったんだ俺。

ただ金には困らない日々が本当に続いたので、静岡に一人暮らししながらも月2ペースで埼玉の実家へ帰っていたし、自分の好きなスキーもそれなりに続けることができた。それだけはよかったと思う(笑)。

 

後は経済・金融・投資の知識も身につくのでそこはいい点かな。

自分は企業の確定拠出年金(401k)でインド株に入れているし、401kとは別に積立投信を行っている。まとまったお金が出来たら債券などを買ってもいいしね。

 

まあただホントにしんどい1年だったよ。辞めてよかったって本当に思うね。

結果を出すべき場

酔うに任せた記事である。

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世の中には「結果を出すべき場」というものがある。

結果がその後の評価や、人生に直結するような場である。

部活動あったら、日々の練習かもしれないし、週一の練習試合かもしれない。その部活動の自分のパフォーマンスが、公式試合でスタメンに選らばれるか否かが変わる。
逆に言えば、勉学はスタメンに選ばれるか否かについての影響力はあまりない。定期テストの結果は、部活動でスタメンに選ばれる上で「結果を出すべき場」ではないと言える。

逆に勉学面の評価、通知表は、定期テストの結果がそのまま反映されることが多い
(日々の宿題や課題はあるかもしれないが)。
部活動を頑張ったから、国語が「5」になることはあり得ない。国語において、結果を出すべき場とは、短絡的ではあるが国語の定期テストの試験だと言える。

ピアノであったら、ピアノのコンクールの演奏、数分の演奏一本が「結果を出すべき場」なのかもしれないし、スキーだったら大会で滑ってくるたった一本の滑りがそれなのかもしれない。

ペン回しと言えば、CVに提出したほんの数十秒の動画が「結果を出すべき場」かもしれない。

同じように、社会人も「評価を下される場、基準」が「結果を出すべき場」なはずなのだが、どうやら自分の先輩方にとってはそうではないようである。

今日の飲み会では、先輩方が感じる会社の評価基準が間違ってることを、自分の正義にのみ照らし合わせながら語るのを、ひたすら聞く会であった。


仕事をする上での自身の正義はあるであろうが、それを叫んだところで影響力を伴わない正義は虚しくこだまするだけである。

悲しいかな、国政の多数決とは違い、会社は上に立つ一人の人間の裁量で価値判断や政策決定がなされるのだ。

上に立つ人間も同じように自身の正義を掲げているはずなのだが、今日、ありがたくお話を聞かせていただいた人達からは、「その選択が正しいと、上の人たちがどういう理由から考えているのか」、また「上の人たちがその選択をせざるを得ない状況とは一体何なのか」を分かろうとする姿勢がまるで見られなかった。
もしかしたら分かっているのかもしれないが、彼らは手っ取り早く叩ける人間を見つけて、「優れている」自分たちに酔っているだけなのかもしれない。

その状況を変えるうえで、仮に上の人たちが下の人達の意見を聞いてくれる人たちならば、まだ声をあげる意味はあるのかもしれない。
しかし、聞いてくれない人達であったら………?下の人たちはそのまま見えないところで声を挙げ続けて何か状況が変わるのか?

資本主義のような利益を求める社会では「結果を出すべき場」に関して評論する人間ではなく、「結果を出すべき場」で戦える人間が基本的には求められる。評論が結果として利益になるのであればいいが、飲み会でくだをはく会がそうであったとはとても思えないが……………。

………………あぁ、酔いどれの頭にはこれが限界だ。
そのうちまた続きを書こう。


…したっぱがこんな記事を書かなきゃいけない状況ってなんだ。

邪魔な「くだらないプライド」は昔から示されていた

自分のプライドの源泉を辿ってみる。

いつから、自分は自分を取り繕うようになったのだろうか。
嘘をつくようになったのか-------------

今を見てみる。

今は分からないことを聞かれたときの対応は、ツイッターで、ペン回しに関することだととにかく繕っている。
人よりモノを分かっている様子を見せたくて、よく分かっていなくてもそういうツイートをする。
恐らくこれは仕事での瞬時の判断に悪影響を及ぼしている------------

前職ではどうか。

前職では素直に自分の能力のなさを認めるよりも、怒られたときのダメージが大きすぎたため、嘘をついてでもなんとか怒られないよう、上司の耳障りのいい言葉を言えるよう努めていた----------------

学生時代。

就活……確かに繕っていた。
口がモノを言う就活とは、その場しのぎで繕えばなんとかなる競争であった。
ひとつはここで企業を、社会を、人を、甘いと思ってしまったのかもしれない。
所詮はその程度だと。
目の前の人間は何も成し遂げていない学生の口先三寸にすら騙される人間なのだと---------------

大学のスキーサークル。

必死に人と、目標と、夢と、向き合った4年間。
人を騙そうとしたことは、ないと、思う。
ただ、4年目の途中から、スキーのことが分かり初めてから、周りの人間に対する見方が変わったかもしれない。
遥か上の技術を持つ人達を分かった気になり、そうでない人たちを見下していたきらいがある。自分はその技術を体現できてすらいないのに----------------

大学受験。

2010年4月。基礎の基礎から始まる講義に、ひっくり返りそうになったのを今でも覚えている。
だがその基礎の基礎を徹底的に繰り返すことが、結果として日本で有数の大学に入学することになった。
だが少なくともこの過程で、自分は「なんで分からないの?!」と言われることを恐れていたと思う--------------

高校生はそもそもいい思い出がなく、人として成長した覚えがない。
無邪気な同級生のいじり(め?)の対象となり、鳴りを潜めて過ごしていた。

中学生。

努力したことがそれなりに結果に直結する時期だった。
学年テストの学年順位は一桁、学校対抗の駅伝大会の代表、英語スピーチの学校代表で地区入選など、中学生時代は、これまでの人生のなかでも数少ない「怖いもの知らず」な日々であった。

家では

自分は部屋掃除や食器洗いなど、ありとあらゆる家事を母と祖母に任せていた。
「掃除をしなさい!」と言われても、生返事だけで動くことはなかった。

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そして、仕事。
今の会社では2年目、社会人としては3年目を迎える。
今の仕事のやり方は、人に尊敬されるやり方なのか。

先日、たまたま部屋の掃除をしていると、小学校と中学校の通信簿が出てきた。
懐かしい~と思い出を振り替えるべくペラペラめくってみたのだが、結果として「今のあなたはこうですよ」と、現実を見せられることになった。

学校教育は役に立つのか?という疑問は少なからず頭にあったが、通信簿は社会人の自分を現しており、どう変えなければならないのかを示す指針となりうるものだった。

どこにそれが書いてあるのか。

学問だろうか。国語、数学、英語、体育………。

ここにはない。
少なくとも学年順位一桁をキープしてた自分だ。学問面では優秀である。

だか通信簿には、勉学とは別の項目が用意されている。

それが

「生活面」

である。
評価項目は

「人の話をきちんと聞いているか」
「自分のやることを責任を持ってやれているか」
などなど…………。

この評価が、自分の通信簿では異様に低かった。
「よくできる」は2~3個、「がんばりましょう」が1~2個ついており、あとはすべて空欄である。

この「生活面」は今の自分をすべて表していた。

ヘタな自己啓発本を何冊も読むよりも、評価項目の一文一文が自分の「プライド」に突き刺さる。

自分が昔から何も成し遂げられない人間であることを、その通信簿は示していた--------------

自分の「くだらないプライド」は、恐らく学問面的優秀さからくるものなのだろう。
それは「仕事」という、協調性、行動力などの目標を遂行する力が求められる世界とはかけ離れたものである。

社会人としての優秀さは通信簿の「生活面」にすべて表される。これは自信を持って言える。上でも述べたが、自分の通信簿は1500円前後のヘタな自己啓発本よりもずっと役に立つ。なぜなら自分の評価と足りない点が全部印されているからだ。

だが幸いなことに、自分は自分を変えることが出来る。過去は過去、現在は現在だ。 


学生の人に告げるなら、社会人になっても「通信簿」はつきまとう。成績も評価の対象だし、いわゆる「生活面」に値する項目が、社会人でもあるのだ。

社会人になって初めて実感する、学生時代の通信簿。
今一度自分自身の追憶と、戒めのために、見返してみてはいかがか。